砂糖の歴史シリーズ「江戸時代」の砂糖事情②
みなさん、こんにちは。製造担当のジャッキーです。
前回琉球での砂糖産業の勃興について書かせて頂きました。
儀間真常という偉人のおかげで、琉球において砂糖産業が重要産業として発展し、我が国における製糖業の出発点となりました。
では本土ではどうだったのでしょうか?
海外との取引
18世紀の日本は鎖国下で、主に海外との取引は長崎(江戸幕府直轄)、鹿児島(薩摩藩)、対馬(対馬藩)、北海道(松前藩)の4か所に限られていました。
そのうち長崎に輸入された砂糖の量は“和漢三才図会”(1713年成立)によると18世紀初めには年間白砂糖1500t、氷砂糖120t、黒糖450tで、このほか琉球450tの黒糖があるとなっており、合計2520tでした。ちなみに内訳は以下のようになっています。
- 白砂糖…台湾、交趾(コウシ)、南京、福建、寧波(ニンポー)、カンボジアなど
- 氷砂糖…台湾
- 黒糖…交趾、台湾、福州
砂糖それぞれこのような産地があげられています。
また唐(中国)船とオランダ船の輸入量は年により大きな変動がありましたが、18世紀を通じて唐船が年間約960t、オランダ船が約360tと推定されています。
陸揚げされた砂糖は長崎会所の倉庫に収められ、荷主との間で価格が決められ、会所の指定商人の入札によって売却されました。
※会所・・・幕府、諸藩の行政、財政上の役所
落札された砂糖はほとんどが中央市場である大坂の問屋や仲買商に廻送され、そこから江戸や諸国の問屋へ出荷されていきました。と同時に、砂糖の代価等で国外に流出する金、銀、銅も巨額に達し、幕府の要職もようやく事の重大さに気づき憂慮し始めていました。
さて、あまりの貿易不均衡のために、一方的に金、銀、銅が海外へ流出していたわけですが、この後砂糖の扱いはどうなったのでしょうか。
次回へ続く。
ちなみに
当社はこのころ(1744年)に“駒屋”という屋号で雑貨業として創業し、第三代「平兵衞」から、砂糖を取り扱い始めたようです。
※詳しくは当社ブログ内“駒屋について”をぜひ、ご覧ください。
最後まで読んで下さりありがとうございました。