砂糖の歴史シリーズ「江戸時代」の砂糖事情③
みなさん、こんにちは。
製造担当のジャッキーです。
ぜひ、これまでのお話とあわせてご覧ください。
さて前回②の話あった通り、あまりの砂糖人気で代価としての金・銀・銅が国外へ流出し、幕府の要職もようやく事態の重大性に気づき、憂慮し始めたところまで、書かせて頂きました。
さて、当然そうなると幕府としては、輸入制限(長崎新令1715年)を断行するとともに、殖産興業政策の一環として砂糖の国産化方針を打ち出し、幕領への甘蔗の作付けを奨励します。この時の将軍様は8代徳川吉宗で、“米将軍”としても有名ですが、砂糖の国産化に対しても係わっていたわけなんですね。
これをうけて、江戸城の吹上庭園や芝の薬園(現浜離宮)では田村元雄(本草学者1718年-1776年 号は田村藍水)などに甘蔗(サトウキビ)栽培と砂糖の試作を行わせました。
また市街では『平賀源内(静電気の発生装置を復元した人)』や先ほど出てきた田村元雄の弟子でもある『後藤梨春』などの本草学者や医師などが、中国の“天工開物”などの技術書を手本に白糖製法の研究を続けていました。
※天工開物・・・中国の明末(17世紀)に宋応星によって書かれた産業技術書。上巻の第6部に製糖のことが記されている。
一方、長府藩(山口県)では医者であり研究者でもある『永富独嘯庵(ながとみ どくしょうあん)』が独自に長崎で唐人から白糖製法の伝授を受け成功していました。
その後、上記の田村元雄も成功し、その事業を新田開発家の池上幸豊に託します。池上幸豊は幕府(“ワイロ政治”で有名な田沼意次)からの支援を受け、東海から西日本の諸国を巡回して、甘蔗の作付けと製法の伝授を行いました。
諸藩は藩財政の再建に腐心していた時でもあり、殖産興業政策の柱に甘蔗作と砂糖製造を据える動きが一挙に広まっていきました。
こうして日本の各地において、製糖業(和糖)が勃興していったわけなんですね。
今回はここまでにしたいと思います。
最後まで読んで下さりありがとうございました。