砂糖の歴史シリーズ「江戸時代」の砂糖事情
みなさん、こんにちは。製造担当のジャッキーです。
上の写真は沖縄のサトウキビ畑です。心の底から晴れやかになっていくような景色ですね。
さて、戦国時代には砂糖はまだまだ貴重で、その入手は主に海外からの輸入に頼っていたと前回書きましたが、続いて今回は江戸時代です。
江戸時代の砂糖事情
江戸時代初頭、ついに沖縄(琉球)において砂糖(黒糖)が製造されるようになりました。
琉球の正史「球陽」によれば儀間真常(ぎま しんじょう)(第二尚氏王統琉球王国の士族、殖産家。唐名は麻 平衡(ま へいこう))は1623年、中国の福建省に使いを出して、製糖法を学ばせ黒糖(黒砂糖)を製造したと記されています。
当時の沖縄(琉球)では、サトウキビは栽培されていましたが、甘い汁を食べ物の代わりとしていただけで、サトウキビから黒糖を作る方法は誰も知りませんでした。
そんな時、黒糖が薩摩では高く売れるといううわさを聞いた儀間真常は、黒糖づくりの方法を学ばせるため二人の若者を中国に渡らせ、二人が学んで戻ってくるとサトウキビの作付けと黒糖の増産に取り組み、その後黒糖を専売制にし、当時の琉球王朝の財政を支える重要産業として発展させました。
これが我が国における製糖業の出発点となっています。
サツマイモを日本に広めた
またこの儀間真常は、“サツマイモ”を全国に広げるきっかけとなった方で、当時の沖縄(琉球)は台風や、やせた土地のせいで、豊かではなく、度々飢饉に見まわれ人々の生活は困窮していました。
そんなおり、やせた土地でもしっかりと育つ沖縄(琉球)にぴったりの“イモ”の噂をききつけ、種イモを分けてもらうと自宅の庭で栽培し、見事に栽培法を確立しました。
これが“サツマイモ”で、その後、サツマイモの普及に取り組み、多くの人々を飢餓から救った偉大な方でもあります。
まとめ
製糖業の“祖”であると同時に、当時の貧しい日本の、救国の英雄であったともいえる方だったわけですね。
最後まで読んで下さりありがとうございました。